愛媛県 南予 1




日本最古の道路開閉橋 長浜大橋





 長浜大橋は、橋の下に船を通すため、中央部の18メートルの区間を跳ね上げて開閉することができるバスキュール式(跳ね上げ式)可動橋で、日本で現存する道路開閉橋としては最古です。毎週日曜日の13時に点検を兼ねて開閉されるほか、夏季(7月 - 9月)の夜間(19時 - 21時)にはイルミネーションが点灯されます。1977年(昭和52年)、河口寄りに国道378号のコンクリート造の橋梁(新長浜大橋、長さ333m、幅10m)が架かり、幹線道路としての役割はそちらに譲りましたが、現在でも生活道路として地元の車両や通学の児童生徒に利用されています。橋のたもとの橋名板は建設当時のものであり、「長濱大橋」と旧字体で表示されています。1998年には国の登録有形文化財に登録され、のち国の重要文化財に指定されました。

構造形式 - バスキュール式可動橋
橋長 - 226m
幅員 - 5.5m
開閉部の長さ - 226m
開閉部分の重量 - 82t
着工 - 1932年(昭和8年)10月
竣工 - 1935年(昭和10年)8月
設計・施工 - 増田淳、細野組(大阪)、安藤鐵工所、大阪鐵工所(現日立造船)
総工費 - 29万円
道路 - 県道

アクセス
JR四国予讃線伊予長浜駅より徒歩10分。





四国電力 伊方発電所(原子力)



 伊方原子力発電所(伊方原発)は、四国最西部、佐田岬半島付け根付近の北側斜面に位置し、瀬戸内海(伊予灘)に面しています。四国電力および四国地方唯一の原子力発電所で、国内の原発で唯一内海に面しています。

 伊方原発の1号機(初号機)は1972年11月に原子炉設置許可を受けて1977年9月に運転を開始しました。2017年で運転開始40年目を迎えることになりましたが、四国電力は2016年3月に、1号機の廃炉決定を発表しました。四国電力では、1号機の新規制基準適合のための対策や、安全対策を図るための工事に必要な技術や費用などを検討していましたが、運転期間延長の認可申請を見送り、2016年5月10日をもって廃止しました。また、2号機も電気需要の低迷などで、2018年5月23日に廃止しました。

 伊方原子力発電所近傍のメロディーライン(国道197号線)沿いに伊方ビジターズハウスが有り、原子力発電について学べると共に、発電所の遠景が望めます。

原子炉概要
  出力 運転開始 運転終了  施工・型式 現況
1号機 加圧水型軽水炉 56.6万kW 1977.9.30  2016.5.10  三菱・2ループ 廃炉作業中
2号機 加圧水型軽水炉 56.6万kW 1982.3.19 2018.5.23 三菱・2ループ 廃炉作業中
3号機 加圧水型軽水炉 89.0万kW 1994.12.15   WH、三菱・3ループ 稼働中


アクセス
JR四国予讃線八幡浜駅よりタクシー又はレンタカーで30分。
伊方ビジターズハウスより発電所遠景が見られる。






佐田岬砲台跡

 佐田岬砲台は、愛媛県西宇和郡伊方町正野にあった大日本帝国陸軍の砲台です。佐田岬半島先端部に位置し、豊予要塞を構成する砲台として、豊予海峡の防備のため1924年より整備されました。1945年の終戦により廃止され、戦後長く放置されていましたが、2017年になり一部が観光用に整備されました。

 佐田岬砲台は、第一次世界大戦後の1921年(大正10年)から建設が始まり、第1砲台と第2砲台がまず作られましたが、昭和19年にいったん廃止されました。しかし、昭和20年太平洋戦争末期に本土決戦に備えて再整備され、穹窖砲台(第3・第4砲台)が新設されました。現在使用されている灯台への通路も、かつては砲弾などを運搬する要塞の連絡通路であり、レールの上を電動車が走っていました。いずれの砲台も実戦に使用する機会は無く終戦を迎えましたが、米軍による戦闘機や飛行艇からの機銃掃射攻撃や小型爆弾による散発的な攻撃は何度か受けています。




駐車場から佐田岬灯台に向って歩いていく途中で最初に見えるのが、佐田岬砲台の司令部、
病舎、官舎の遺構。周囲には水道施設の遺構も残っている。



そして、次に容易に目に入る遺構が探照灯(サーチライト)格納庫跡。探照灯は直径
1.5mだったが、格納庫高さは4m程ある。



探照灯格納庫跡のすぐ近くにある機材格納庫。



佐田岬灯台



佐田岬灯台直下の登り口



四国最西端!



佐田岬灯台から豊予海峡を見る。対岸は九州。



対岸九州にある佐賀関の工場の煙突が見える。



佐田岬灯台から御籠島を見る。佐田岬灯台と御籠島は写真の通り繋がっている。
写真右下隅に見えるのが、灯台直下に設置された第3砲台。



御籠島から見た第3砲台。2門あることが分かる。こちらは非公開。



御籠島から見た佐田岬灯台。



御籠島にある第4砲台。



2017年に第4砲台への地下壕が整備され、一般見学が可能となった。
当時はもちろん素掘りであったが、現在はこのように補強された。



御籠島南側岸壁の第4砲台には三八式十二糎榴弾砲2門の掘込み砲台が設置された。
弾薬庫も洞穴に作られた。これら穹窖砲台の榴弾砲は。豊後水道を挟んだ対岸の大分県の
鶴見崎砲台から移されたものであるが、砲身長が1.44mしかなく射程も5.68kmと短い明治
時代の旧式砲であった。写真の榴弾砲は精巧なレプリカ。

戦時の遺構を見て歴史を直視し、改めて平和の大切さを認識したい。


アクセス
JR四国八幡浜駅から伊予鉄南予バスで1時間20分で三崎(1日3本)。
三崎からタクシーで佐田岬灯台遊歩道入口まで約20分。遊歩道入口から佐田岬灯台まで徒歩約20分。






遊子水ヶ浦のだん畑



遊子水荷浦の段畑は、愛媛県宇和島市遊子に位置する、急斜面に石垣を積み上げ作られた階段状の畑地です。2004年(平成16年)の文化財保護法改正により創設された重要文化的景観選定制度により、四国地方で初めて2007年(平成19年)7月26日に重要文化的景観選定基準の「水田・畑地などの農耕に関する景観地」として、遊子水荷浦の段畑の名称で選定を受けました。


以下に遊子水荷浦の段畑の歴史を紹介します。


・段畑の誕生(江戸時代終わりごろ)
 沿岸部には稲作に適した土地は少なく、浦々の人々は山の斜面を畑として開墾し、雑穀類を栽培し自分たちの食料を得ていたと考えられます。ただ、浦ができた当時は麓のあたりを開墾した程度で、斜面一面に”段々畑化”していくのは、人口が増加する江戸時代の終わり(天保年間)の頃で、またこの頃にはサツマイモが伝わり、重要な作物として沿岸部一体で栽培されるようになりました。

・段畑の石垣化のはじまり(明治末~大正ごろ)
 江戸時代の終わりごろに誕生した段畑ですが、明治10年の記録には、水荷浦の斜面のほとんどが開墾され、8,900枚の畑となっていたとされています。ただ、そのほとんどは明治の中頃まで土岸だったようで、段畑の石垣化は、明治末から大正にかけて盛んとなる養蚕経営に端を発します。畑はサツマイモから桑へと切り替わり、養蚕で得た収入で畑の石垣化や家屋の改修が行われました。

・男は海へ、老人と女性は畑へ(昭和のはじめ)
 養蚕景気も昭和初期には終わりを告げ、遊子村も大きな負債を抱えることとなり、再起をかけて村共同経営の鰯網漁が生まれます。豊漁期にも恵まれ、昭和10年代にはその負債も返済してしまいますが、このころから、働き盛りの男性は漁へ出て、老人と女性が畑仕事にあたるという今の生活の形ができます。またこの頃の段畑には、再びサツマイモが栽培されるようになり、戦後の切千景気へとつながっていきます。

・切千景気(昭和20年代)
 戦後の食糧難や食料供出制度によって、サツマイモは増産されるようになりました。従来の生食用に加えて、デンプン・酒用アルコールの原料としての切千として出荷が盛となりました。切千については米価格と同額となるケースもあったとのことで、耕地を増やそうと畑の石垣化にも拍車がかかるようになります。しかし、この切千景気も昭和27年には大暴落してしまうのです。

・早掘りジャガイモ栽培のはじまり(昭和30年代)
 昭和30年代、サツマイモの大暴落(生産過剰と砂糖・糖蜜類の輸入)、鰯の不漁、ネズミの大量発生などで、沿岸部の村の暮らしは非常に苦しいものでした。しかし、冬に植え春に収穫するジャガイモ栽培に成功すると、驚くほどの価格で取引され、丸に水をあしらった商標で売り出して、水荷浦には大阪からの貨物船が横付けされるようにもなったそうです。

・養殖の時代へ(昭和40年代)
 昭和39年には早くもジャガイモが生産過剰で暴落してしまいます。周辺の畑ではミカン栽培などに切り替わっていきますが、水荷浦では柑橘栽培に不向きな環境であったためか、ジャガイモが作り続けられます。しかし、昭和30年代後半にはじまった真珠やハマチの養殖産業が軌道に乗り始め、全国屈指の養殖産業地域として発展を遂げていきます。

・段畑を守ろう会の結成と段畑の復活(平成時代)
 養殖産業が活気を見せる中、段畑は次第に山野に帰りはじめ、30ヘクタールはゆうにあった段畑は、平成に入ると2ヘクタールほどの規模まで減少してしまいます。しかし、養殖産業にもかげりが見え始め、景勝地として再び段畑に注目されるようになり始めました。このような気運の中、平成12年に地元有志のメンバーが中心となって、「段畑を守ろう会」を結成し、行政とも連携をとりながら、段畑の復旧やオーナー制度、収穫祭の開催(ふるさとだんだん祭り)そして、ジャガイモ焼酎の開発、交流施設(だんだん茶屋)の経営などをおこなっています。 それらの活動と耕作者の方たちの努力が実を結び、かつてほどの規模とはいえませんが、5ヘクタールほどまでに段畑が復活しました。

出典:段畑を守ろう会HP

























アクセス
JR四国宇和島駅から宇和島自動車で約1時間(1日7本)水ヶ浦で下車すぐ。













ガイドブックには載らないディープな四国